惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。
中島敦「悟浄出世」
著述家の菅野完さんのメルマガで「この作品を読んでうつが抜けていった」とあった。どんなものか知りたくて、すぐに求めて読んでみた。1ページ目から、なぜか涙がじんわりと沸いてくる。結局、ぐすぐすと泣きながら読んだ。「うつが抜ける」どころではない。むしろ、「ぐるぐる」。「考えすぎスパイラル」に私は落ちていった。
私とは何か?
「私」=「先生」であったとき、私は先生であった。
「私」=「自由」になったとき、私は会社をやめた。
私の「私」に対する認定が、現実。
残酷なほど、寸分もたがわず。
それは確か。
ならば。
行うべきこと、行いたいこと、それに対しての「私」は?
私とは何か?私とは何か?私とはいったい何なのか?
ぐるぐる廻り、自分を切り刻み、ああでもないこうでもないと思考にはまる。いや、おそらく。コトはきっとすごくシンプル。もっともっと簡単なこと…。
小一時間、考えていただろうか。けれど。「考えてもわからない!もう、いいや!」と、考えるのをやめたとき、ふと「一切の思念を捨て」というくだりが浮かんだ。
と、なにかが 浮かび上がった。
「私」=「私」
もしかして・・・
もしかして、それだけ???
何がどうだからこうではなく
何をどうするか、だから、こうするでもなく
私が私自身でいるだけでいい。
「ふさわしき場に身を置き」
「ふさわしき働きに打ち込め」ばいい。
求めるものは、きっとそれだけで手に入る。