カテゴリー別アーカイブ: 【 つぶろぐ 】

日々、思ったこと、感じたことを勝手きままにテキトーに書いてます。

ラーフの終わりに

ラーフの基本性質

  • 正体: 黄道と白道の交点のうち、月が南から北へ通過する点(昇交点)。実体星ではなく、インド神話では日食や月食を起こすアスラ(魔神)とされています。
  • 主な象意:
    • 強い欲望、執着、野心(もっと欲しいという渇望)
    • 外国、未知の分野、常識にとらわれない革新性
    • 物質的な成功や社会的発展、しかし同時に混乱や執着による迷い

2019年から高校でアルバイトの講師をしていた。そこへ行ったとき「悟浄出世」の「ふさわしき場に身を置きふさわしき働きに打ち込め」という言葉が、頭にあった。そして、講師の仕事をしているときはずっと、その言葉がともにあった。

「ふさわしき働きに打ち込む」日々は なかなか良かった。もちろん、イヤだなーとか、チッと舌打ちしたくなることだってあった。

しかしながら、そういうときでさえも、自分の心をあーだこーだ弄って、何かを知りたいとか、何かを追究したいとかといった欲がなくなってしまったのだ。

ようするに… 「どうでもいい」になってしまったのだ。

「どうでもいい」になるというのは「執着」がなくなった状態。

つまり、私にとっての「その時期」が終わったのだろう。

それに伴って、ここのHPも、変更しなければ…と思って数年がたってしまった。

が、あるきっかけで、突然、今日、HPの「片付け」をしている。

奇しくも、娘の土星期がもうあと数日で終わろうとしている。私のラーフ期もあと数年で終わる。

振り返ってみると、私のラーフは「執着」だった。いろいろなものに執着したが、結局、最後は全て「どうでもいい」になっていくのだと思う。

そう考えると、本当に人間というものは、アホらしい。アホらしいのだが、【執着して苦しんでのたうつ】という過程を通り過ぎないと「どうでもいい」にならないのだから、困ったものだ。

と、悟ったようなことを書いてはみたものの、きっとまた、何かに執着して苦しんでのたうって…をやると思う。生きてる間は、ずっと。

「私」が消えた日

押し寄せる雑事を片端から対応し、片付けてはまたを繰り返し1年が経つ。

ありとあらゆる物事が

自分の予測や計画を狂わせる。

夢十夜の第十夜に「豚に舐められますがよござんすか?」とあるが

後から後から湧いてくる「豚」をステッキで打ち払う。

獅子奮迅の働き、

されど

庄太郎が豚に舐められてしまったが如く

疲労困憊、

諸事万物、自分自身すら

コントロールなどできないのだと知る

なんと無力なわたし…

ああなんと、何もできないわたし…

これはなんと形容すればよいのだろう?

ああ、あれだ、

例えるなら

ポツダム宣言受諾

無条件降伏だ

そのとき

胃の腑から「白いもの」が湧き上がった

これはなんと呼べばよいのだ?

そう、たぶん、名付けるなら

「安寧」

すると

「私」は泡になり

金色の光の海に放たれた。

光の海にたゆたいながら

あれほど切望し

あれほど執着した「安寧」は

なんだ、ここにあったのか…

光のつぶも泡もその境目も溶けていく

なんだ、「私」なんて、いないじゃないか

なんだ、「私」なんて、溶けてるじゃないか

自分も他人も過去も未来も

どうでもいい

そういうことじゃないか…

全てがもともとあった

ならば、もう、無条件に降伏しよう

もう、何も足掻かなくてよい

もう、なるがまま、あるがままにたゆたえばよい

「悟浄」は「悟浄」

惟おもうに、爾なんじは観想かんそうによって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄すて、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用はたらきの謂いいじゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有もつのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後こうご一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。

                        中島敦「悟浄出世」


著述家の菅野完さんのメルマガで「この作品を読んでうつが抜けていった」とあった。どんなものか知りたくて、すぐに求めて読んでみた。1ページ目から、なぜか涙がじんわりと沸いてくる。結局、ぐすぐすと泣きながら読んだ。「うつが抜ける」どころではない。むしろ、「ぐるぐる」。「考えすぎスパイラル」に私は落ちていった。


私とは何か?

「私」=「先生」であったとき、私は先生であった。

「私」=「自由」になったとき、私は会社をやめた。


私の「私」に対する認定が、現実。

残酷なほど、寸分もたがわず。

それは確か。


ならば。

行うべきこと、行いたいこと、それに対しての「私」は?

私とは何か?私とは何か?私とはいったい何なのか?


ぐるぐる廻り、自分を切り刻み、ああでもないこうでもないと思考にはまる。いや、おそらく。コトはきっとすごくシンプル。もっともっと簡単なこと…。

小一時間、考えていただろうか。けれど。「考えてもわからない!もう、いいや!」と、考えるのをやめたとき、ふと「一切の思念を捨て」というくだりが浮かんだ。

と、なにかが 浮かび上がった。



「私」=「私」

もしかして・・・

もしかして、それだけ???



何がどうだからこうではなく

何をどうするか、だから、こうするでもなく

私が私自身でいるだけでいい。

「ふさわしき場に身を置き」

「ふさわしき働きに打ち込め」ばいい。

求めるものは、きっとそれだけで手に入る。

それはまるで「奇跡」の瞬間

「だれかが水をくんでいるところでした。先生は私の手をその水の吹き出し口の下に置きました。冷たい水が片方の手の上をほとばしり流れている間、先生はもう片方の手に”water”という単語を、始めはゆっくりと、次には速く、綴りました。私はじっと立って、先生の指の動きに全神経を集中させました。突然私は、なにか忘れていたものについての微かな意識、わくわくするような思考のよみがえりを感じました。そして、どういうわけか、言語の持つ秘密が私に啓示されたのです。  私はその時、 w-a-t-e-r という綴りが、私の手の上を流れている、この素晴しい、冷たい物を意味していることを知ったのです。この生き生きとした単語が、私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、(暗黒の世界から)解き放ったのです。実のところ、まだ越えなければならない障害はありましたが、その障害もやがては取り払われるはずのものでした。」

出典ヘレンケラー第2章(2)

 

 

セラピストになりたいと 思ったことはなかった。

「セラピストを目指す」なんて なんだか変だった。

私は 自分の心を 知りたかった

自分自身を 知りたかった。

なぜ こうなっているのか

どうして こうなったのか知りたかった。

ただ それだけのことだった。

 

 

私が自分を知りたいと思う

そのもっともっと前からずっと

読んでいたblogがあった。

 

 

娘が荒れに荒れた時

わたしはほんとにほんとに困って途方に暮れた。

もうどうしていいのかわからなかった。

そのときに、始めて

その方に「鑑定」をしてもらった。

そのときの一言が

核心をついた。

だから 私が変わった。

それで 娘も変わった。

 

 

その頃だっただろうか・・・。

blogに書かれていることが

ぜーんぜんわからなかったけれど

だんだん、わたしに関係する何かを言ってるんだってわかってきたのは。

 

 

知りたかった。

その何かが 知りたかった。

 

 

けれどまた

長い長い時間が かかった。

自分を知る勇気が出るまで

もう全部 ひっくり返して みてやろうと肚をくくるまで。

 

 

「肚をくくる」

そのチャンスをくれた人がいた。

 

肚をくくり、機会を伺い、そしてやっと師匠に逢えた。

 

 

image

 

 

「自分の中にある」という言葉が

意味を持った 瞬間

書かれた字が

空を漂っていた言葉が

一瞬前とは

まったく違うものに見えた。

 

 

それはまるで

ヘレン・ケラーが

「ウォーター」とは

掌を打つこの冷たい液体のことであると 気づいた瞬間のよう・・・。

 

 

長い長い時間が かかった。

けれど惜しくはない時間だった。

 

 

その月日が

今までの全てが

私をここに連れてきた。

 

 

「生まれてきてくれてありがとう。」

愛する人に言えたその言葉を

今、やっと

自分に言える。