差別とは快楽

差別は、いわば暗黙の快楽なのだ。例えば、短絡した若者たちが野宿者を生きる価値のない社会の厄介者とみなし、力を合わせて残忍なやり方で襲撃する時、そこにはある種の享楽が働いているのだ。それは相手を劣ったものとして扱うことで自分を保つための装置でもあるから、不平等な社会では差別は横行する。そして、あたかも問題があるのは差別される側であるかのように人々の意識に根付き、蓄積されていく。

時の権力は、権力に不満が集まらないようにするためには、ただ、差別を放置するだけでいい。そうすれば、いつまでも分断されたシモジモ同士の争いが続く。

他方、差別される側は、差別の理由を求めてさまよう。その理由をなくせば差別されなくなると考えるからだ。しかし、差別するための「理由」は、いくらでも付け足される。結果、自らの努力ではどうにもならない状況が作り出され、多くは無力感を植え付けられていく。

【差別と日本人 野中広務/辛淑玉 より抜粋】

 

差別というと固いイメージがあるけれど、実は私達の日常生活の中で、いろいろな<差>をつけて<別>にしようとする意識が働いている。

 

例えば、あの人はお金があるから、家が〇〇だから、結婚しているから、離婚したから、etc…

 

相手を劣ったもの、あるいは自分よりも恵まれたものと位置付けることによって、我が身を守ろうとする。自分が劣っていると感じているものを正当化する。

 

そして、それが「正しい」ことになってしまっているので、自分は劣っていると感じ続ける。

 

その立ち位置にいるかぎり、堂々巡り。決して幸せになれることはない。

 

 

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