月別アーカイブ: 2018年3月

エゴ

人が自分のしたことに対して自信がなくなるときは、

それがエゴだったから。

無意識でそう感じてるから不安になる。

 

 

正しいとか間違いとか判断したがるのもエゴ。

自分は正しいって思いたいのもエゴ。

自分は間違ってたって思いたいのもエゴ。

 

 

でも。

どんな選択をしても大概はエゴ。

 

 

人はそういうもの。

「所詮、自分はエゴイスト」と認めるしかない。

 

 

そして。

エゴであった自分も含めそのときの自分にOKを出す。

エゴで判断したがる自分にもOKを出す。

所詮エゴイストである自分にもOKを出す。

 

 

出来ることはそれだけ。

生きてる限り。

 

差別とは快楽

差別は、いわば暗黙の快楽なのだ。例えば、短絡した若者たちが野宿者を生きる価値のない社会の厄介者とみなし、力を合わせて残忍なやり方で襲撃する時、そこにはある種の享楽が働いているのだ。それは相手を劣ったものとして扱うことで自分を保つための装置でもあるから、不平等な社会では差別は横行する。そして、あたかも問題があるのは差別される側であるかのように人々の意識に根付き、蓄積されていく。

時の権力は、権力に不満が集まらないようにするためには、ただ、差別を放置するだけでいい。そうすれば、いつまでも分断されたシモジモ同士の争いが続く。

他方、差別される側は、差別の理由を求めてさまよう。その理由をなくせば差別されなくなると考えるからだ。しかし、差別するための「理由」は、いくらでも付け足される。結果、自らの努力ではどうにもならない状況が作り出され、多くは無力感を植え付けられていく。

【差別と日本人 野中広務/辛淑玉 より抜粋】

 

差別というと固いイメージがあるけれど、実は私達の日常生活の中で、いろいろな<差>をつけて<別>にしようとする意識が働いている。

 

例えば、あの人はお金があるから、家が〇〇だから、結婚しているから、離婚したから、etc…

 

相手を劣ったもの、あるいは自分よりも恵まれたものと位置付けることによって、我が身を守ろうとする。自分が劣っていると感じているものを正当化する。

 

そして、それが「正しい」ことになってしまっているので、自分は劣っていると感じ続ける。

 

その立ち位置にいるかぎり、堂々巡り。決して幸せになれることはない。

 

 

保身

公文書改竄問題

 

「答弁」に立つ官僚を見て

自己保身と感じる人もいれば

何かを守っていると感じる人もいる。

 

大きなものにすがろうとしつつ

力を憎む人もいる。

 

投影。

相手は鏡。

何をどう感じるかは、自分の内面を映しているにすぎない。

「女は感情的 男は論理的」

↑ これを差別だやめてくれと怒る女性もいるのだが・・・(#ウィメンズマーチ参照)

 

怒るということは「感情」

ちなみにオレは冷静だって怒りながら言う男もいる(笑)

 

そして男にとっては感情的になるのが「恥」なのだろうし

女にとっては論理的に話を詰められるのが苦手っていう点もある

 

差別だって感じるポイントは

「男は」とか「女は」とかっていう主語、レッテル。

 

大人であれ子供であれ

誰でも

ときには

感情的になっていいし

論理的になっていいし

そして

感情的になった方が良いのにそうできないこともあるし

論理的になった方がふさわしいのにできないときもあるって

話にしておけばいいだけ☆

 

(と 国会中継を見ながら思う。)

嫉妬と優越感

【比べる】ことで 

自分が負けた感じがすると 【嫉妬】

【比べる】ことで 

自分が勝ったかんじがすると 【優越感】

どちらも

比べることをやめる

あるいは

比べる対象がなくなれば

消える