身の丈の幸せ

ときおり、何かの拍子に、ふと自分の奥底にしまいこんだものが浮かび上がることがある。

Twitterで流れてきた言葉に「身の丈」という言葉が何回もあった。そこで、浮かびあがったものを連ツイしつつ、朧気になった自らの言葉を確認すべく、かつてのブログを開いた。

 

書いた日付を横目でとらえ、もう13年も経ったのだなぁ…としみじみする。目的の記事を見つけると、13年前の私はこんな風に綴っていた。

自分の「器」以上の幸せを求めていてはくたびれてガタがくる。かといって、あまりにも小さすぎてはつまらない。自分の器を大きくすればそれなりに幸せも大きく、自分の器が小さいままならそれなりに幸せも小さく…きっと幸せって「身の丈」がちょうどいいのだろう

当時の私は「身の丈」という言葉を使いつつも、「器が大きいのが良いこと」、だから「器を大きくしよう」、そうすれば「大きな幸せが手に入る」と考えていた。

つまり。

器の大きさとは「獲得するもの」と捉え、「外にあるもの」を得ることで自分が大きくなる、成長できると考えていたわけだ…。いやはや、突っ込みどころ満載。恥ずかしい限りだ。

けれど。

今の私の思う「成長」とは、当時とは全くの逆だ。

本来の器でないもの、余計なものは削ぎ落とす。すると「器そのもの」が顕れてくる。そうして「器そのものでいる状態」が「身の丈」。その「身の丈」でいることこそが「ありのまま」でいることこそが「幸せ」だと…。

そして。

身の丈である器はなるべくいつもカラにしておくのが望ましい。与えられたものを受け取り、受け取ったものは誰かに与える。するとまた、与えられ受け取り、誰かに与えまた受け取る…。それはまさに幸せを循環させる「循環装置」だ。社会の中のその一部になれるだなんて、こんな幸せなことがあるだろうか…。

 

13年の月日は長かった。【きっと幸せって「身の丈」がちょうどいい】そう綴ったかつての自分はおそらく、「ありのまま」である幸せを求めていたのだろう。ということは…。「結局は自分で答えを持っていた」「長い時間をかけても行きたい場所には必ず辿り着く」。私が辿ったこの歳月が、ありありとそれらを物語っているではないか。

 

答えは自分が持っている。探さずとも必ず手元にある。

だから…。

「大丈夫。必ずそこに行きつくよ」

かつての自分にそう声をかけ、私は懐かしい「居場所」をそっと閉じた。

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